103万の壁のモヤモヤ感
昨年の「103万の壁」騒ぎに、モヤモヤ感を感じてきた。
一例としてNHKのWEBページ
新聞ニュースをみていると、178万まで「壁」の引上げを要求する国民民主党と抵抗する政府与党という構図であり、国民民主は「正義の味方」扱いである。
モヤモヤ感は、従来いわれていた「103万の壁」の意味が、足並み揃えて変わったことから始まった。従来「103万の壁」とは扶養限度のことであったのが、課税最低限のことになった。これには仕掛け人がいるに違いない。
<参照>
「103万の壁」(その1)いつのまにか「壁」の意味がすり替わった
所得控除引上げは高額所得者に有利
もはや崩れ落ちそうな「総合課税」「累進性」を柱とする現行所得税法を前提とすれば、「壁」を引き上げるという掛け声は、庶民にとって響きがよいが、給与所得控除や基礎控除などの所得控除引上げは、高所得者に有利である。
本当に課税最低限が目的ならば、所得税の103万ではなく住民税の98万こそ「壁」というべきである。所得税の最低税率は5%で、住民税は比例税率の10%である。
<参照>
「103万の壁」(その2)なぜ「98万の壁」といわないのか
103万の意味するもの
103万が焦点となる理由は、「お父さんは会社、子育てを終えた妻はパート、学生はバイト」、低賃金短時間労働に依拠する企業という日本社会の現状と新自由主義的政策による非正規労働者の増加にある。103万が生活を賄うに足りないのは自明のことである。
<参照>
正社員と非正規 民間給与実態統計から
民間給与実態統計にみる男女の賃金の違い
配偶者控除、扶養控除は廃止すべき
税法学者は基礎控除や扶養関係の所得控除を「人的控除」と呼ぶ。扶養の有無で生活費が違う、税金を負担する能力も違うからと考えるからである。
人的控除分には課税すべきでないと考える人も多い。扶養控除も含めて課税最低限とする考えには、「個人」でなく「世帯」が念頭にある。税法が憲法13条の「個人の尊重」に追いついていないのだ。
課税最低限と所得控除を関連付けるとすれば、強制保険(社会保険料)と基礎控除のみでよい。基礎控除を最低生活費レベルに引き上げることだ。
扶養手当と扶養控除
税法学者が、扶養控除と合せて「人的控除」と呼ぶこと、所得税法に配偶者控除や扶養控除が存在するのは、戦後の労働組合運動により、企業の支払い能力論、能力主義を排し、生活費給与(扶養家族が関係する)を基本とする電産型給与体系が、普及したという歴史的背景があるように思える。
従来語られてきた「103万の壁」は、会社員の妻の扶養限度のことであり、配偶者特別控除により、税法上の壁は幻となった。しかし、配偶者手当が存在する給与体系のもとでは、やはり「壁」である。
電産型給与体系は、画期的なものであったが、「お父さんは会社、妻は専業主婦」という価値観の時代的制約がある。時代は変わっても「103万の壁」を「壁」とする考え方は、今も何ら変わっていない。むしろ妻がパートにでなければ食えないのでは、後退しているとさえいえる。103万の壁の本質はジェンダーの問題である。
106万の壁、130万の壁
これらは社会保険の壁として話題になっている。社会保険は、失業、疾病、老齢に対する社会のセーフティネットである。これに妻が加入せず、セーフティネットから、こぼれ落ちてもよいという考え方は、いかに古臭いものであるか、気づいたほうがよい。これは、社会保険料を負担したくない企業サイドの要望である。
もちろん社会保険料が高すぎるというのは別の問題である。
課税最低限の考え方
最低生活に課税しない(課税できない)という原則は憲法25条の求めるところである、と考えることができる。しかし、払うべきは払う(とるものはとる)ことを原則としたうえで、所得が最低生活費に満たなければ給付するという考え方もある。
これはベーシックインカムに通ずる考え方であるが、複雑すぎる制度を一本化できるというメリットがある。こうなると、現在の社会保険制度は全廃することができる。
課税最低限を引き上げる一番簡単な方法
現在の所得税制を維持しながら、課税最低限を引き上げるには、「所得税額が3万円に満たない場合はこれを切り捨てる。」とするだけでよい。これによって、年収200万程度までは課税されない。システム改修の手間も最小で済む。
蚊帳の外のフリーランス
税理士であったので、確定申告が必要な「事業所得」で申告しているこれらの方のことはいつも気になる。かつて「事業所得」といえば資本(元手)があり、自己の勤労と併せた所得と考えられてきた。ところが、いまフリーランスといわれる人たちは、勤労所得者である。しかし「給与所得控除」の適用はない。あきらかに不平等である。すくなくとも経費の実額控除と給与所得控除の選択適用を認めるべきである。
パッチワーク税法
業界団体の声代弁かと思える各府省の税制改正要望、それを受け入れながら、どこかで取り戻す財務省。これの繰り返しで、税法は複雑怪奇なものになっている。これに一番困惑するのは税理士である。
簡単でよいはずの年末調整が、今では専門家でも、パソコンがないと手におえない。社会全体として考えると膨大なリソースの無駄遣いである。
一億円の壁
所得1億を超えると実効税率が下がる「1億円の壁」。
原因は金融所得の低率分離課税にあるのだが、問題視する声もあるが、手が付けられることはない。
「金持ち課税」という研究書によれば、「社会が富裕層に課税するのは、国民が国家は富裕層に特権を与えていると考え、公正な補償によって富裕層にほかの国民より多く課税することを要求するときである」という。具体例としては「富の徴兵」である。庶民が徴兵によって、戦場にいっているのに、戦争で儲かっている富裕層がいると、社会が考えるとき、富裕層課税が行わるという。これを補償論と呼んでいる。事実、戦時には、アメリカ、イギリス、フランスでは90%といった税率が採用されている(ピケティ「21世紀の資本」321ページ)。
「金持ち課税」によれば、戦争テクノジーの変化から、戦争に国民の大多数を動員する時代ではなくなったことから、もはや補償論が、勢いをもつことはない、という。はたしてそうだろうか。
<参照>
なぜ「一億円の壁」は崩れないのか
「金持ち課税」税の公正をめぐる経済史
累進課税の課題
累進課税の現代的意義は「再分配機能」にあるといわれ、現代ではスタンダードであるが、戦争の産物である。
累進課税について「専門家」らしき人も誤解があるので、最初に説明しておくと、現在の所得税率は、5%から45%までの7段階である。
仕組みは超過累進税率であり、課税所得200万とすると、195万までは、5%、195万を超えた部分5万円は10%となる。
総合課税(すべての所得を合計して税率を適用する)が原則ながら土地の譲渡、株式の譲渡など分離課税となっており、これらは、累進税率は適用されない。一億円の壁といわれるように、現実には、累進課税は弱体化し、機能しなくなっている。
<参考>
スミスの課税原則
アダム・スミスの課税原則は、今でも参照されることが多い。単純に「第一原則」は「公平原則だね」といった、試験勉強的理解でなく、税制に興味がある人は読んでほしい文献である。第一原則では、スミスの考える「公平」とは、平等的な意味合いでの「公平」や資力があるからという意味での「応能」ではなく、かれらが享受する収入は、国家が負担する経費があってこその収入である、とする考えが明確に打ち出されている。
「富裕層に課税すると、みんな逃げだす」という論者に対する明確な反論である。
第4原則は通常「最小徴税費原則」とよばれているが、ここでは「厳密には費用とはいえないが」としながらも税務調査を納税者の負担する費用に入れていることが注目される。
スミスの時代に存在しなかった、申告納税制度は、優れた制度である。納税者の申告に要する負担もできるだけ軽減すべきである。特に現在の年末調整の複雑さは、ブルシット・ジョブ以外のなにものでもない。
<参照>
「国富論」アダム・スミス
主権者としての国民の未熟性
「日本の納税者」三木義一(岩波新書)「私たちは、本当に主権者になれたのだろうか?」この本の書き出しである。
日本国憲法は前文で「主権が国民存することを宣言し」とあるように、日本国は国民主権の国である。国民主権とは、国の政治のあり方を国民自身が決定することである。税金をどう集め、どう使うかは、国の政治のあり方の根幹である。
国民主権のもとでは、税制を決めるのは国民であり、税金はとられるものではなく、主権者たる国民が自分に課すものである。これが建て前である。この建前を放棄してはならない。現状では、国民は主権者たりえているだろうか。