「私たちは、本当に主権者になれたのだろうか?」この本の書き出しである。
日本国憲法は前文で「主権が国民存することを宣言し」とあるように、日本国は国民主権の国である。国民主権とは、国の政治のあり方を国民自身が決定することである。税金をどう集め、どう使うかは、国の政治のあり方の根幹である。
国民主権のもとでは、税制を決めるのは国民であり、税金はとられるものではなく、主権者たる国民が自分に課すものである。これが建て前である。現状では、国民は主権者たりえているだろうか。
この本のタイトルは「日本の主権者」としてもよいとさえ思われる。日本の民主主義を考えている人に是非手に取って欲しい一冊である。
本の内容は多岐にわたるが、この本を読みながら、私なりに考えてみたことを以下に記しておく。
未成熟な主権者
日本の主権者は、およそ税金に関する仕組み(税制)に無関心であり、税制は上から押しつけられたものという意識しかない。
国税庁HPの税の学習コーナーには次の記載がある。
「税金は、国を維持し、発展させていくために欠かせないものです。そこで憲法では税金を納めること(納税)は国民の義務と定めています。この「納税の義務」は「勤労の義務」「教育の義務」とならんで、国民の三大義務の一つとされています。」
憲法の納税義務などの義務規定は、憲法制定過程おける無理解から書き込まれたものだ。憲法制定時の国会議員の多くは「国民主権」という考え方は、理解できなかったようだ。もっとも当時の大蔵省も憲法に納税義務規定をおくことにこだわった(本書19ページ以下参照)。
憲法の三大義務。学校でそのような教育をしているのだろうか。私には、そのような記憶がない。国民は主権者たりえているだろうか。現在もこの状況はさして変わっていない。
国民主権を前提に租税の意義を書くならば、「税金は、国民生活の維持のため欠かせないものです。税金をどう集め、どう使うかは、国の政治のあり方の根幹であり、私たちが納める税金はみなさんの代表である国会議員が国会で議論して法律として定めたものです。この法律によって私たちは納税の義務を負っています。税金はきちんと納めましょう。」といった内容であるべきではないか。
「憲法上の義務」とは、いかにも上から目線である。しかも近代憲法とは、国家の基本法であるとともに、権力を抑制するためのものであるという視点が欠落している。
日本国憲法99条は、憲法の擁護尊重義務を負うものとして、天皇、摂政、大臣、国会議員、裁判官、公務員を名宛て人としており、国民は入っていないのである。
とはいっても、建て前と異なり、税金は上から与えられた義務であるというのが実感であり、一般国民が税制のあり方や決定に関与する機会がないのが現実である。この大きな要因は、国民の側の主権者意識の未成熟と、あえて国民を「税」から遠ざけている制度にある。これがこの本から私が学んだことである。
納税者には二つの意味がある
「納税者」という言葉から内を連想するだろうか。納税者には二つの意味がある。
「納税者の声を聞け」というときの納税者は、国民と言いかえても意味は同じである。もう一つは国税通則法の規定する納税者であり「国税に関する法律により国税を納める義務がある者」である。
多くの給与所得者は、源泉徴収と年末調整によって、自ら税金を確定し納付することがない。年末調整によって、多くの給与所得者は国税通則法上の「納税者」ではなくなっている。ここに税金に関する無関心の根元がある。
消費税だけは、例外で、納税者意識があるように思えるが、報道も増税か減税かといった単純なものであり、主権者意識とはほど遠い。
国民が主人公の国、これが建て前であるが、税を軸にみてみると、私たちはこの建て前すら放棄してしまっているのではないだろうか。
みんな給与所得者
判決文でよく目にする「租税の専門性」を理由とした行政庁の裁量を容認する判断、税制に関する新聞記事、学者の論文ですら、なんとなく違和感がつきまとう。
この本を読んで、この原因がはっきりした。
税法を起案する官僚、国会で審議する政治家、そして報道関係者、裁判官、大学教授まで、この人たちのほとんどが、給与所得者である。つまり国税通則法上の「納税者」ではない。
おそらく、これらの人のほとんどが、所得税の申告をしたことがなく、まして消費税の納税義務者ではない。
この本でいうところの「税務署がどこにあるか知らない」人によって、法律が作られ、執行され、裁判がなされているのである。
年末調整によって税から切り離され、税に関心がもてなくされているという現状は大きい。