「有閑階級の理論」 ソースタィン・ヴェブレン

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ゴーン氏逮捕のニュースをみて思い浮かべたのがこの本だ。昔読んだのだが、ちくま学芸文庫から新訳が出ていずれ買おうと思っていたので、さっそく購入して読んだ。ガルブレイスの序文がついており、なんか得した気分。原著の初版は1899年で、原題は「The Theory of the Leisure Class」Leisureは、ラテン語の「法律で認められている、許されている」とういう意味が語源だそうで、私たちが使う「レジャー」とは違う。「Leisure Class」とは英語を母国語とする人たちの感覚でいえば、従来から「有閑階級」と訳されてきたのは、正鵠をえているのだろう。19世紀末という時代背景で言えば、生産労働に従事しない(しなくてよい)人々で社会の支配層である「富裕層」「大金持ち」のことである。

ガルブレイスの解説によれば、この本のテーマは「俗物根性と世間体につて最も網羅的に論じた本」であり」「ヴェブレンにとって、金持ちは単に人類学的標本にすぎない」ということだそうだ。

なんでゴーン氏の事件でこの本を思い浮かべたかというと、お金持ちはなんで、そんなにお金が欲しいのかという回答がこの本にあると思ったからだ。そこには単にお金があれば楽ができる、なんでも買えるといった庶民の感覚とは違うようだ。

この本の重要なキーワードが、「衒示的」conspicuousである。「衒示的消費」(conspicuous consumption)「衒示的浪費」(conspicuous waste)などである。通常私たちが使う言葉におきかえると「自慢するために見せつける」「人目を引くための消費、浪費」といった意味あいだろうか。ではそのような欲求が何に由来するのであろうか。ここからがヴェブレンの真骨頂で、これらの欲求は野蛮な先祖の投影であるという。これらの欲求は、野蛮時代の有閑階級が略奪品を誇示したのと同様の欲求が現代の有閑階級にも引き継がれているというのだ。現代の有閑階級にとって、「お金」は野蛮時代の略奪品と同じだというのだ。略奪品がどれだけ欲しいかといえば、それには限度がない。自慢するために見せつけるのだから、自分より略奪品が多い人がいる限り満足できない。ここまでだと、対象はお金持ちだけかと思うってしまうが、ヴェブレンによれば、下層の一般人もひたすら上層のマネをするので、規模は違ってもやはり同じだというのだ。

ガルブレイスは序文で「ゆたかさがある程度になると、服や家や車や娯楽といったものから得られる楽しみは、主流派経済学すなわち新古典派が愚かにも想定しているようには感じられなくなってしまう。」と書いているが、そう言われるとなんとなく自分の「消費」も野蛮人の投影なのかと考えてしまう。

話はお金だけでなく、運頼みの気質や、スポーツ、高等教育、差別意識などまで及ぶ。ガルブレイスが書いているように、この本はゆっくり楽しみながら読むべき本である。

ちくま学芸文庫 有閑階級の理論