アダム・スミスの「国富論」といえば、経済学の古典中の古典としてあまりにも有名である。初版が1776年であり、時代背景をいうならば、フランス革命は目前であり「アメリカの動乱」(独立戦争のこと)が現在進行形である。
200年以上前の書物であるが、財政学の分野では、しっかりと現役であり、スミスの租税に関する原則は「スミスの4原則」として、財政学の教科書に必ず記載されている。「スミスの4原則」は、現代日本の税制を評価する基準としても十分に役立つ。しかもスミスは、国富論の中で、繰り返し「税務官吏による検査」にふれている。このことは財政学者の興味が及ばないためか、あまり注目されない。しかし、実務家である私からみると、スミスが、租税の必要性、租税の財源、課税対象という財政学的な問題にとどまらず、租税の徴収手続きまで、言及していることは、驚きに値する。「国富論」は、過去のモノでなく現在も十分に読まれる価値のある書物であり、実務家としての読み方があるのではないかと思っている。
2014年にスミスの「道徳感情論」の新訳が日経BPからでた。その本の「帯」をみると「国富論の利己主義でなく、共感こそ新しい経済社会の基礎となる」とある。この短い文章から、現在主流となってしまった「新自由主義」に、ようやく疑問符がつき始めたことがうかがえる。しかし「国富論」を通読すれば、現代の新自由主義(市場万能論)に通じる考え方を読み取ることはできない。むしろ、現代の新自由主義者は、スミスが国富論で一貫して批判した「重商主義者」に近く「経済政策を売り歩く人々」(クルーグマンの著作のタイトル)に思える。国富論を読み直しみようと思ったのは、「道徳感情論」がきっかけである。スミスの4原則は、200年の時を経過しながら生きている。
スミスの4原則とは
スミスの租税4原則は、一般に(1)公平の原則、(2)明確性の原則、(3)便宜性の原則、(4)最少徴税費の原則と訳されている。しかし、これらは後世のだれかがそのように要約しただけである。この「公平原則」から、「垂直的公平」とか「水平的公平」といった議論に結びつけるとすれば、スミスのいわんとしていたことから、乖離してしまうように思われる。「最小徴税費の原則」もしかりである。4原則を現代に生かすためには、国富論全体から読んでいく必要がある。
国富論における4原則の位置づけ
4原則は、後の章で展開される当時のイギリス(フランスもの含む)の税制を評価する基準として第5編(最終編)冒頭におかれ、あるべき税制の指針でもある。
国富論最終編の第5編は、「主権者または国の収入」(山岡洋一訳)であり、現在でいう財政学である。構成は次の3章からなっている。
第1章 主権者または国の経費
第2章 社会の一般財政収入の源泉
第3章 政府債務
第1章は政府が負担すべき費用の内容と、租税の必要性であり、第2章は租税の財源と税の在り方、すなわち課税の対象と負担者(負担すべき者)の原則であり、この原則に基づく当時の税制の批判、あるべき税の姿の提案である。第3章は国債(政府債務)である。
「国富論」のテーマ
そこで、今少し視野を広げて、そもそも「国富論」のテーマとは何かといったことに少々立ち入っておきたい。
「国富論」は全体で5編からなるが、通読すると分かるように、そのテーマは「重商主義」批判であり、重商主義の影響により、「国の豊かさ」を損なう政策が政府によりとられていることを実証的に明らかにしようとしたものである。この書物は、スミスの生存中に5回の改訂を経ており、スミス自身が構成を緻密に組み立てたものである。したがって、その構成や章立てはこの書物の理解に役立つ。第1編は、有名な分業から始まるが、内容は「価値論」「分配論」に相当する。最後が第5編第3章の「政府債務」である。
「価値論」のような抽象的な概念規定から始めたのは、重商主義を根本から批判するためであったと思われる(私にはそう読める)。なぜならば、スミスによれば重商主義とは、商人階級の「詭弁」であり、商人階級が、議会、地主、貴族の説得に成功し国家の政策となったものである。理論というよりは当時の「常識」「気分」に近い。したがって、これを根底から批判するためには、抽象的な概念から始める必要があったものと思える。これは現代でも変わらない。理論的な裏付けなく「常識」となっている似非理論を批判するのは、実に大変なことである。なお重商主義とは、国が金や銀を保有することが豊かさであり、そのためには貿易差額を得ること、より多く輸出して少なく輸入することであるという「理論」であり、リカードは重商主義の目的を「外国との競争を禁じ、国内市場の価格を引き上げるもの」と定義している。
国富論の最終章が「政府債務」(国債)であることも興味深く、政府債務を償還するための指南書だともいえる。以上を前提とするとスミスの4原則は次のように読まれるべきである。原則は現在でも十分に価値をもつものであり、現行の税制(改正案も)は、4原則に照らし評価、批判されるべきである。なお以下の記述は山岡洋一訳(日本経済新聞社)および、岩波文庫旧訳(松川、大内訳)によっている。
4原則を読む
第一原則
一般に「公平原則」と呼ばれる原則であるが「あらゆる国家の臣民は、各人の能力にできるだけ比例して、いいかえれば、かれらがそれぞれ国家の保護のもとに享受する収入に比例して、政府を維持するために貢納すべきである。」(松川・大内訳)と書かれている。ここでスミスの考える「公平」とは、平等的な意味合いでの「公平」や資力があるからという意味での「応能」ではなく、かれらが享受する収入は、国家が負担する経費があってこその収入である、とする考えが明確に打ち出されている。
スミスの言う公平とは、国家が支出すべき経費の財源は租税であり、よって、この支出によって恩恵を受ける階層が、「国家の保護のもとに享受する収入」に比例して負担すべきであるという、「応益負担原則」に近い。
スミスは、国家が負担すべき費用を大きく、(1)防衛費、(2)司法費、(3)公共施設・公共機関の費用、(4)主権者の権威を保つための費用と区分している。ここには、現代国家の重要な支出項目である「社会保障費」はない。この時代のイギリスでは健康保険制度がないことはもちろんのこと貧民救済は教会(教区)の役割であった。
第一原則のもう一つの「公平」は、課税が偏らないことである。スミスは、税金の財源となる収入を、土地の地代、資本の利益、労働の賃金としており、一つの財源にのみ課されるとすれば、それは不公平であるとしている。
以上から、第1原則を私なりに読むならば、「税金は負担すべき人が能力に応じて負担すべきである」となる。ただし、負担する能力(担税力)は、本人の努力や幸運だけによるものでなく、「政府の保護(SUPPORT)があってこそ」であり、ここから、累進税率の根拠を導くことさえできよう。もう一つは、課税が特定の所得階層に偏ってはならないということである。
なおスミスは、税金は、しばしば立法府が予定した人々(階層)と異なる階層の負担となることを詳細に論証しており、単純に法律で定めた「納税義務者」の負担となるとは、考えていない。様々な税金が、どの階層に影響を及ぼすか詳細に分析している(後年リカードによりこれまた詳細に反論される)。租税帰着の問題である。これも税制を評価するために、重要な視点である。
第2原則
第2原則は「明確性」の原則であり、納税者が負担する税金は、本人からみても他者からみても恣意的であったてならず、金額はもとより、支払時期、支払い方法は明確であり平易ものなければなないとする原則である。
これは、現代の租税法律主義の「明確性の原則」に通じるものである。また、第2原則の意義として、この原則がなければ、「徴税人の思いのままとなる」としており、租税法律主義の「合法性原則」に通ずる。
第3原則
「便宜性の原則」等といわれるが、スミスの視点は「払う側」にある。税金は納税者にとって、もっとも便宜がある方法と時期に行うべきであるとする原則である。この原則から奢侈品(贅沢品)に対する課税(内国消費税=物品税)は、消費者が購入するときに課税した方がよいという結論が導きだされる。
第4原則
第4原則は一般に「最少徴税費の原則」等と呼ばれるが、内容は次の4つである。
(1)徴税費用は最小でなければならない。
(2)課税は産業すなわち雇用の元本を減少させてはならない。
(3)犯罪(租税犯)の誘因となる税は避けるべきであり、刑罰は適正でなければならない。
(4)徴税人による検査は、納税者に負担、不愉快な思いをさせることになり、広い意味では「費用」である。
リカードは、この第4原則を「人民のポケットから出た金額と国庫に入る金額の差を最小にすること」と要約している。これも私なりに読めば次のようになる。
徴税コストが少ない税金が選択されるべきであり、産業活動の元本に食い込むような税金は、税金の原資さえ台無しにしてしまう、ということである。ここで「厳密には費用とはいえないが」としながらも税務調査を納税者の負担する費用に入れていることが注目される。
当時の租税犯の大半は密輸であり、これを前提として(3)は読まなければならない。スミスは現在の「保税倉庫」を使った関税システムを提案している。
以上が実務家としての私の読み方である。