インボイス施行から2年 ”インボイス廃止!”

『「社会」のない国日本』 菊谷和宏

この記事は約3分で読めます。
『「社会」のない国、日本 ドレフュス事件・大逆事件と荷風の悲嘆』(菊谷 和宏) 製品詳細 講談社
20世紀初頭に日仏両国に勃発した二つの事件。冤罪被害者は、なぜフランスでは救われるのに、日本では救われないのか? 二大事件とそこに関わった人々のドラマを比較し、日本に潜む深刻な問題が白日の下にさらされる。「日本」という国家はなくても、日本と...

副題に「ドレフェス事件・大逆事件と荷風の悲嘆」とある。

この「社会」には「コンヴィヴィアリテ」とルビが付されている。フランス語であり直訳すると「共に-生きること」となり、日本語で一番近いものは「社会」ないし「社会性」だという。「社会」のない国の「社会」はこの意味である。

ドレフェス事件と大逆事件は、ともに国家の都合により創りだされた、えん罪事件だが、フランスでは最終的に無罪となり名誉を回復した。日本では、えん罪のまま幸徳秋水には死刑が執行された。

この違いはどこにあったかといえば、フランスには「社会」があり、日本には「社会」が存在しなかったからだという。さらに言えば、現在の日本にも「社会」は存在していないというのが、著者の認識である。

集合の三原理

著者によれば我々が集団をなす基盤には三種のものがあり、それは「知」と「情」と「意」であり、それぞれ互いに独立した原理・源泉であり対応関係は次のようなものという。

「知」=制度-国家、会社、裁判長、部長
「情」=共同体-家族、故郷、私の母、隣の佐藤さん
「意」=社会-個人(人間)

国家や会社は「社会」ではなく家族や故郷も「社会」ではない。「社会」とは人間が共に生きる現場のことだという。

ここまでで、なんとなく著者のいう「社会」の意味がわかってくる。

「社会」をなす「個人たる人間」は万人が持つ人間性を有する存在一般としての人間、人権を有する存在であり、この資格で、能力や出自によらず、「平等」な一個人として人間社会を構成できる。

ここからが、難しいのだが、常識に反して、すべての人が「個人」であり、「人間」であるという事実は、客観的に検証可能な経験的事実ではなく、「意志的な努力」をもって創造される事実であるという。この点を見誤る時、我々は社会を失い、個人ではなくなる。社会も人間が存在しなくても国家や故郷といった別種の集団は存在しうる。

国家が創り出した、えん罪事件で、フランスと日本の違いは、フランスには「社会」があり日本には「社会」がなかったからである。 視点はあくまで「社会」「個人」にある。えん罪を創り出したフランス軍幹部も、山県有朋も、国家に縛られた不自由な人間であり、国家の部品である。幸徳と同じように、国家という制度の犠牲者であるという.

日本「社会」創造のために

現代の日本に「社会」は存在するかといえば、状況は大逆事件のときと変わらない。というのが著者の認識である。私もこの認識に同意する。

では、何ができるかと言えば、ほんの些細なことしかできない。「相手の話をよく聞く」「子供の意見も無下にしない」「差別(いわれなき排除)をしない」「いじめに加担しない」などが例示としてあげられている。実生活でたゆまず、実行することは決してたやすいことではない。

「(人間の同類性を世俗的に=現実を支える」個人主義)を「(国家的ならぬ)公的かつ共的な権威」として確立すること。そしてその成否は、国家の政策ではなく、個々人の自発性の発揮に、他者の尊重=創造に、つまり個々人の人間性の覚醒にかかってくる。

ここまで読んで、日本国憲法第13条を思い出した。
第13条「個人の尊重・幸福追求権・公共の福祉」
すべて国民は個人として尊重される。(以下略)

この13条が自民党改正草案では「個人として尊重される」が「人として尊重される」となっている。
日本は「社会」のない国であることが、実証されたようだ。膨大な荷風の「断腸亭日乗」読んでみたくなった。